最終章 その4
さらに僕はこのレストランステージのゲストに、なんと父を出演させたのでした。数年前までなら、もし僕が結婚しても父を式には呼ばなかったでしょうし、父が死んでも、僕は葬式にも出なかったでしょう。ましてや自分のステージに父をゲストで誘うなんて、まず考えられない事です。
父は学生時代に、フォークバンドで音楽活動をしていました。しかし僕は父が嫌いだったため、それに憧れる事はありませんでしたし、兄の影響でギターを始めたあとも、父に教えを乞う事はありませんでした。それでも子供の頃、書斎からよく父の弾き語るフォークソングは聴こえていました。僕にフォークソングの影響があるのは、父からの影響だと思います。
父はこの出演で火を付けられたようで、退職後、45年ぶりに音楽活動を再開します。そして今度は父が、自分でライブを主宰する際に、僕を何度か起用してくれました。そうして何度か父と一緒にステージを重ねるうちに、思った事があります。それは、父との和解は人生の中でやり残してはいけない事項だったのだと言う事です。
世の中で、親が死んでから感謝したり、仲直りすれば良かったなんて後悔する人が山ほどいますが、でも僕らは間に合ったんじゃないかな、と。まだ仲良しとは言えませんし、まだまだ解り合えない事だらけではありますが、それでもこうして共同作業ができる仲になったのでした。
オーディション人材の起用はその後、他にも数ヶ所の店内ステージを獲得するなど、いくつかの発展があり、レギュラーは合計3年ほどで250回近くを重ねました。ゲストを起用する事で不測の事態も数々ありました。しかしどんなアクシデントに対しても、勇気を持って対応し乗り越える事ができました。
2ヶ所目のレギュラーとなったバーでは、当初は出演アーティストが8組くらいおり、僕はその中のひと組として、ローテーションでひと月に1回ペースの出演だったのですが、他のアーティストは演奏曲目を決め打ちでやるのに対し、僕のステージだけはお客様からリクエストを戴く仕組みを構築すると、それがお客様やお店のオーナーに好評で、途中からは僕のプロデュースステージだけが毎週組まれる事になりました。
これだけの場数をこなすと、やはり僕も随分と鍛えられるもので、演奏力やレパートリー曲数だけでなく、トーク力も随分と上がったと思います。最近では、漫談並みのMCを楽しみにしてくれるファンも居るくらいです。僕が本来持っている「お調子者」の気質を、ステージで活かせるようになったのです。
2013年に、KMC国際ミュージックアウォードで、「ハイラム・ブロック賞」を戴いた時にも、自分の変化に気付きました。
KMCは、日本で開催されるカンファレンスとしては最大級のイベントで、日本以外にもアメリカ、カナダ、メキシコ、オーストラリア、フィリピン、シンガポール、フランス、セルビア、マレーシア、ペルー、チェコ、ウガンダなど、5大陸10数ヶ国から60組以上、幅広いジャンルのアーティストが世界中から参加しており、アウォードではその中の優秀なアーティストに各賞が贈られます。「ハイラム・ブロック賞」は、自身の活動のみならず、他アーティストや企業をサポートしていける能力を示した者に与えられる賞で、僕の受賞は日本人初の事でした。
それまでにも何度か、コンテストなどで賞を戴いた事はあったのですが、僕にとってそれは栄光や勲章や、勝利だと思っていました。「どうだ見たか! 自分の実力を証明したぞ! 見返してやったぜ!」と言う感情でした。でもこの「ハイラム・ブロック賞」の時はまったく違いました。
賞と言うのは、「自分がその賞に値するアーティストである事」を、あるいは、「この賞に僕を選んで下さった審査員の目が間違いではない事」を、「今後、活動の中で証明して行かなければならない責任が増える事」なのだと思ったのです。僕はこの歳になってやっと、賞の持つ本当の意味が解ったのでした。
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