第6章 その3

1ヶ月間の入院生活が始まりました。

精神病棟は他の病棟と違うと言われていますが、窓には鉄格子がかかっていたり、日用品の持ち込みへのチェックも厳しかったです。色鉛筆やシッカロールの持ち込みにも厳しいチェックが入り、最終的には許可されましたが、危険物と判断される場合があるようです。

僕は「こんなもんで自殺なんてしやしねぇよ」と思ったり、周りの物を見ながら、「やろうと思えば許可された物だけでもできん事はないな」なんて考えたりもしました。

この入院中、僕は反抗的な感情になる事が多くありました。僕は本来、規則やモラルはキチンと守る人間です。落ち着いている日は職員の方々にも協力的で、礼儀正しく接するのですが、「どうにでもなれ。どうせ俺は死ぬところまで行ったんだ」と言う自棄が入ると、母のためとはいえ、精神病院に入れられているという現実に苛立つのでした。

厳しい規定に対しても、「その規則が必要な患者はいるだろうが、俺には不要だ」との反抗心から、あえてそれをこっそり破った事もありました。

サッカーのW杯アジア予選や、ユーロ(欧州選手権)が見たくて、2度ほどあった半日の帰宅の際に、安物のポータブルテレビを持ち込みました。しかし精神病院はコンセントが全部封印されているため、ドライバーも持ち込んでトイレの個室内にあるコンセントのカバーを取り外して、こっそり使用したりもしました。勿論、凶器になりうるドライバーなんて持ち込み禁止でしょうから、隠し持ってです。スパイ映画の主人公になったような気分がよぎった覚えがあります。

しかし、そうやってルールを破ったり、悪態をつくような態度の日がある一方で、落ち着いて礼儀正しく、時には職員の方々と冗談も交わす日もあれば、鬱全開で朝から晩まで食事も取らず、寝たきりになる日もありました。精神異常者扱いされる事が頭にきて、担当医に喰ってかかり、翌日に自分から謝罪した事もありました。日替わりで両極端な精神状態になる事を担当医に指摘されたのを覚えています。

しかし苛立つ事がある一方で、今の自分の置かれた状況に驚きはありませんでした。僕は今までの人生のすべてにおいて、良い結末になった試しが1度たりとも無いからです。何をやっても、どんなに頑張っても、それが一時的に良い結果になりかけたとしても、最後は必ず「負」に行き着く、僕の人生なんてしょせんはそんなもの。心のどこかで、「ああ、また今度もか」と達観している部分があったように思います。

そして僕は、病院の中で31歳の誕生日を迎えました。首には吊ったあとの痣がクッキリと残っていました。皮が剥け、汁が出た箇所がカサブタのようになり痒かったりもしました。

病院にはインターネットもないので時間は腐るほどあり、考え込む毎日が続きます。なぜこんなに辛い事ばかりしか起こらないのか。どうすれば良かったのか、これからどうすれば良いのか、生きたところで・・・・・。どんなに考えても希望を見つける事などできませんでした。

「もしかしたら彼女が面会に来てくれるかも」と思ったりもしましたが、それはありませんでした。(いずれにせよ、家族以外は面会禁止らしいですが。)

父が海外赴任先のスイスから緊急帰国し、会いに来てくれました。僕は父と精神病院の中で対面しましたが、父は僕を怒りませんでした。一応、「すまん、ありがとう」と言うと、「息子の一大事なんだから当たり前だろ」と笑顔で言われました。退院後に少し諭されましたが、それも僕を責めるものではなく、「母さんを心配させるな」という旨の内容でした。

こんなドン底の僕に駆け寄って来てくれたのは、やはり家族だったのでした。この時、僕は初めて父に絆のような物を感じました。これが幼少時代からずっと仲たがいして来た父との距離が近づくきっかけになります。

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