第5章 その3
僕は母に「本名は捨てた。2度と使うな。親戚にも絶対に使用させるな」と告げました。さらに家中のありとあらゆる物で、僕の名前が書かれている物はすべて書き換えるように言いつけました。ノートや文房具、日用品、小物、あらゆる記録帳の類、子供の頃からの家族アルバムや、学生時代の卒業アルバム、母子手帳も例外ではありません。
そして母が見落として書き換えられていない物を発見すると、また暴れました。事の深刻性を理解していない親戚の叔母から、本名での宛名で送り物が届いた時は、またキレて母を罵倒しました。「戸籍の名前も変えろ」とも指示しましたが、それは法律の壁に叶いませんでした。
新しく付けた名前は、法律上は「芸名・活動名」ではありますが、僕の中では「これが本名」となりました。苗字の漢字も変えたため、玄関の表札はそれ以降、ローマ字表記の札に変えられました。今後届く郵便物は、「新」の僕宛の物もあれば、「荒田」の家族宛の物もあるでしょうから、配達係の方が困らないようにとの判断です。
そんなある時、かつて「小さな学校」で大変お世話になった方が僕を心配して下さり、その方の紹介で居酒屋店内のライブステージにギター演奏で出演する事が決まりました。(まったくの偶然ですが、この時の出演日は僕の28歳の誕生日でした。)
今までは役者として事務所に所属している身なので、ギターはあくまでも趣味としての規模に封印しており、コンテストで西日本3位を獲得してはいたものの、演奏活動は母校の学園祭や知人の企画したパーティーなど、かなり限られた範囲でしか行なって来ませんでした。
しかしこの時のステージが好評で、そこから数ヶ所のイベントに出演が繋がりました。「僕のギターは通用するのかもしれない。これからはギターで勝負してみよう」僕の演奏を聴かれた方々からの反応に、僕はそう決心したのでした。
ただ、僕がそう決めたところで、すぐに仕事としての演奏が獲得できる訳がありません。まずはプロフィールにインパクトある武器を作るために、テレビドラマや、いくつかのCMへの出演を獲得しました。事務所時代には1本もなかったテレビの仕事を自分個人で取れた事に、事務所への未練を少し断ち切る事ができたように思います。
それでもまだまだ仕事なんてありません。ギャラのある仕事は年に数回、他に交通費程度が貰える案件もありましたが、それも頻繁ではありません。ホームページを立ち上げ、ギター教室を開校し生徒募集も開始しましたが、すぐに生徒さんが集まる訳もなく、開店休業状態です。
バイトもしなかったので、稼ぎは年収で10万円以下。時を同じくして、世間には「ニート」と言う言葉が登場し、僕はまさに、そこに分類される人間となっていました。
それから約3年後、事件が起こり、僕はついに首を吊る事になります。
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