第4章の「今にして思う事」1
この社長にも良い部分はあり、「若手役者は金がないだろう」との配慮から、ギャランティの配分ではなるべく役者に多く回すように設定してくれていたと思います。つまり、事務所としてのピン跳ねは少ないほうで「金銭面で悪徳」ではありませんでした。とは言え、仕事そのものが少なかったため、その機会は限られていましたが。
社長のパワハラ、事務所のマネージメント力の無さなどは事実でしたが、しかし能力が評価されなかった事に関しては、原因が自分自身にあった事を後年になって気付かされる事になります。僕は実力さえ証明すれば評価されるものだと思っており、周りに対して自分の実力を見せつける事ばかりを考えていました。関わる方々への感謝の気持ちなどは全くなく、大役を獲得すれば「自分の実力」としか思っていませんでした。
このあたりの話は、最終章のほうに詳しく書きますが、仕事を戴くには「実力」「情熱」「人間性」の3つが揃っていないといけません。僕には、決定的に「人間性」が欠けていました。そして他の2つがあるのに評価されない事が理解できず、周りのせいにしていたのです。
また視野が狭く、「この事務所で勝ち上がる」と言う選択しか見えていませんでした。本当に努力する人間なら、自分で調べて視野を拡げ、この事務所に身を置くのが本当に正しい選択なのかも含め、色んな可能性を模索して、自分の決断として選択し前に進みます。しかし僕には、独立して自分の力だけで道を切り開いていくような勇気がなかったのです。
事務所と言う組織に所属する事で、成功させる責任も、成功できていない原因も、心の中で事務所に転嫁していたのだと思います。悪い現状を事務所のせいにするクセに、そこを飛び出さなかった臆病者なのです。
しかし恐怖政治の事務所は、それに気付ける環境ではなかった事もまた事実です。僕が音響スタッフの時に前途のような扱いを受けて、裏方さんへの感謝の心を学べる訳がありません。指導者の酷さに、自分の未熟さが隠されてしまっていたのです。
僕にとって初めての事務所及び劇団だった事もあり、夢の道の土台となる自分の事務所と劇団が、実は異常なのだと言う事を受け入れるには、経験も勇気も足りませんでした。
事務所の環境が如何に異様だったのか、それは退団後に関わった現場で多く実感します。例えば何か意見を提案する際に「案が2つありまして」と言えば、とりあえず2つのプランを伝え、どちらが良いかディスカッションをします。勿論、不採用となる案が存在したからと言って罵倒される事はありません。最初、「あ、聞いてくれるんだ」と、むしろ驚きに近い感情を持ちました。でもこれは、良い舞台を作るうえで至極当たり前のプロセスです。こんな当たり前のやりとりが、あの劇団には存在し得なかったのです。
列車の効果音の件も、雑談で話に出ると全員が口を揃えて「あり得ない」と言います。ある照明さんは「なんで辞めないの? 普通台本叩きつけて辞めるでしょ」と言いました。今では多くの舞台で僕の感性を取り入れて戴けるようになりました。そんな瞬間の度に僕は、自分の感性が活かせている事に喜びを感じます。同時に、良い舞台を作るために僕の意見に耳を傾けてくれた相手に深く感謝します。「作品作りの醍醐味」は、劇団を辞めてからやっと知った喜びかもしれません。
近年になって当時の劇団仲間と話す機会があると、色んな事が見えてきます。誰1人、楽しかった思い出を話さないのです。みんな「あそこは酷かった」と言う話しかしないのです。
人生の中でも、20代のエネルギーには凄い物があります。その時代に本気で取り組んでいた劇団の思い出を、40代になって語り合った時、普通なら、「貧乏だったし苦労したけど、あの劇団は俺の青春だった」って感想が少なからずあっても良さそうなものです。
しかし、そう振り返る者が1人も居ないのが、つまり答えなのです。僕らは、夢を人質に捕られた奴隷だったのです。
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