第4章 その6
食事は1ヶ月間ほどまったく出来ませんでした。ゼリーなどを少し食べたほか、2度ほど母が作ってくれたうどんを食べましたが、それも完食できませんでした。1ヶ月間で合計、おそらく3日分の食事量にも満たなかったと思います。
台本も見る事が辛くなりました。台本を開いた途端、めまいと眠気が襲って来て、クラクラと倒れてしまうのです。僕はいつの間にか、セリフも出番も極力少ない役を願うようになっていました。以前であれば、ひと言でもセリフが多い役を熱望していたのに。
そんな鬱の中で、欠席などもしつつ更に2年ほど無理やり劇団には通いました。事務所を辞める事はすなわち、子供の頃から描いてきた夢を終わらせる事、それは文字通り「生きる意味」そのものを失う事だと思っていたからです。それだけはどうしても受け入れられなかった僕は、辞める選択だけは出来ず、苦しいだけなのに無理にしがみ付いてしまったのです。
悪い事に、この頃から社長のパワハラは輪をかけて、頻度も酷さも悪化していきました。おそらくこの時期、劇団員達の社長への信頼がいよいよ崩れ始めており、社長もそんな団員達の空気が気に喰わず、今まで以上にピリピリしていたのだと思います。社長は稽古場で毎回機嫌が悪く、常に僕らを睨み付け威圧し怒鳴りつけるので、芝居を向上させるための建設的な会話なんて、とてもまともに交わせる空気ではなくなっていました。
数人の団員がなんとか劇団を活気づけようと、色んな企画を考案しては提出するものの、明らかに団員の出したアイディアのほうが良い場合でも、それを採用すると自身の沽券に関わる事を懸念してでしょうか、多くの場合で無能呼ばわりと共に却下されました。
それがあまりにも長年続いた事で、ついには団員の中で案を相談し合う段階から、「どうせ通らない」「提案するだけ無駄」「罵倒されるのが分かってるから出したくない」と、前への歩みそのものを躊躇う団員が増え、劇団は活気を失って行きました。そしてその活気の無さに、また社長は腹を立て怒鳴り散らす悪循環なのでした。
僕は、「お前なんて何も持っていない」とも言われました。鬱の中でこの罵声を受けると、より一層心を崩壊させられます。稽古も本番も嫌々やっているだけで、少しも楽しくないし、ひたすらしんどいだけ。遣り甲斐も、手応えも、達成感も、何も受け止められる精神状態ではありませんでした。
芝居や舞台そのものを、嫌いと感じるようにすらなっていました。そんな状況で続けたところで、事態が好転する訳はありません。
2005年、ついに事務所と劇団を退所退団します。役者になりたいと思ってから16年、歩み始めた養成所入所から9年ちょっと。他のすべてを犠牲にして賭けて来た夢が、汚れて終わりを迎えたのです。僕にとって絶望的な挫折、それは文字通り、生きる意味そのものを終了させる事でした。
最終日の劇団からの帰宅途中、涙があふれだし、泣きながら帰宅しました。「涙が頬をつたう」とか、そんなぬるい泣き方ではありません。子供のようにヒックヒックと、しゃっくりをする泣き方です。いくら堪えようとしても止める事ができませんでした。電車の中では、きっと周りからは変な男に見えた事だと思います。玄関を開けると、泣きながら帰って来た僕の気持ちを察した母が抱きしめてくれました。
学生時代、神様は夢を叶えるくらいのバランスは取ってくれるはずだと信じていました。その引き換えだと信じて、どんなに酷いイジメの辛さにも耐えてきたのです。それなのに夢を叶えられないなら、僕は一体なんのために生きているのだろう。
夢が叶わない絶望に重なって、過去のイジメでの悔しさまで強烈に蘇り、生きる意味を見失うのでした。
0コメント