第4章 その5

そして事件が起こりました。所属タレント全員のボイスサンプルが収録された時の事です。ボイスサンプルとは売り込みの際に使う各タレントが読むナレーション等の音源ですが、本体である東京事務所は、僕が本来やりたい「声の仕事」を主に扱っており、僕はこの収録を「東京行きに繋がるオーディション」の要素も含んだ貴重な機会と捉え、相当な覚悟と気合いを持って臨みました。

「人生のすべてを賭けた1戦!」大袈裟無しで、それくらいに意気込んでいました。

そしてこのレコーディングで、僕は最高のサンプルを録音する事ができました。スタジオの方からは「全員の中で1番良い。声の仕事は長くやっているのですか?」と言って戴けたくらいでした。実際は、声の仕事は1度しか経験していなかったのですが、自身でも最高の手応えの、誰よりも完璧な物を録る事が出来たのでした。

「ついに東京への道が繋がる! ついについに、今度こそ本当に夢に手がかかる!」そう思いました。

ところがです、とても信じがたい話ですが、なんと編集を担当したスタジオの若いエンジニアさんの操作ミスで、その音源データが消去されてしまったのです。急遽再録音が行われましたが、急なスケジュールに寝不足で行ってしまった僕は再録音でボロボロ、1度目の収録には遠く及ばない散々な出来になってしまったのでした。

僕はあまりのショックに、食事もできずベッドからも起き上がれなくなりました。鬱になったのです。ただ、当時はまだ「鬱」に対しての知識がなかったため、この感覚がなんなのか解りませんでした。

ちょうど都合良く、直後の1ヶ月間ほどはいくつかの事情で劇団がほとんど休みでした。僕は朝から晩まで、ずっとベッドの中で問い続けました。なぜこんな事になるのか。この不運は一体なんなんだ。

その若いエンジニアさんは、最初の録音の時に自己紹介を交わしましたが、なんて名前だったかも覚えていません。それだけ僕の人生で極めて接点の少ない人です。そんな、ほぼ無関係の人がボタンをひとつ間違えたミスで、僕の人生の最大のチャンスが潰えてしまったのです。

僕は毎日毎日、頭の中でグルグルとあらゆるシミュレーションをしました。もっと最悪のケースがあるとしたら、どんなシチュエーションがあるだろうか。「こうなるよりはマシだ」と言う最悪のシナリオを必死に探しました。しかしどんなフィクション筋書きも、現実に起こった事を越える物はありませんでした。

翌月から劇団が再開されても、僕の体調はまったく回復していません。劇団活動は1日置き週に3回あるのですが、帰宅するとベッドに倒れ込み、丸2日間寝たきりになりました。

帰宅時には、翌日に活動がない事にホッとします。でも、そのまた次の日はすぐにやって来てしまいます。嫌で嫌で仕方なく、でも今すぐ起きないと20分後の電車に間に合わないし、それに乗れなければ遅刻するという事も解っています。それなのに、どうしても起きられないのです。僕は昔から、現場には必ず30分前に着くように家を出るような人間だったのに。

何度か遅刻を重ねてしまい、事務所からの評価はますます落ちて行きました。そして帰宅したらまたベッドに倒れ込み、2日間寝たきりになる、その繰り返しです。

それでも僕は、自分のこの症状を事務所に報告や相談をする事ができませんでした。言えばますます仕事が貰えなくなる、夢を叶える事から遠ざかってしまう、だから隠さなければと考えてしまったのです。当然の話ですが、僕にとって社長は悩みを相談できるような存在ではなかったのです。

0コメント

  • 1000 / 1000