第4章 その3

演技指導や演出においても理不尽が多く、一貫しない指示で演者を混乱・迷走させます。ある日の稽古で、僕は「妻の機嫌を気にしながら新聞を読む夫」の場面を演じました。気がかりなのはあくまでも妻の機嫌であり、新聞内容は重要ではないとの解釈での演技だったのですが、それに対し「もっと記事に興味を持てよ! お前が持たないと妻が興味を持てないだろ!」と怒鳴られたため、僕はそのシーンで新聞記事を興味深く読むようになります。

ところが翌週の稽古で「こんなもん興味持つもんじゃねぇだろ!」とキレられたのです。自身で前週に「興味を持て」と言った事を忘れているのか、あるいは自分の判断が変わった事でナメられてはいけないと思っての責任転嫁なのか。変更の発生自体は良いとして、それをこのように演者の未熟さのせいにして怒鳴るため、演者は台本の解釈や役作りの方向を、どっちに進めば良いのか見失ってしまい、混乱と迷走をするばかりなのでした。

またある時は社長の勘違いでセリフが抜け落ちていたにも関わらず、さんざん罵倒したあとに、この喰い違いが自分の勘違いだと気付いたようで、誤魔化すために「このセリフはカットだろ!」と言い出した事もありました。本番でもそのセリフはカットされたままとなり、つまり社長は自分の沽券を守るため、舞台としてベストではない選択を押し通したのです。

理想的な指導とその逆の指導に、「勇気づけ」と「勇気くじき」と言うのがありますが、社長はとにかくモチベーションを落とさせるのが上手く、まさに勇気くじきの指導でした。良かった所にさえ、いちいち言いがかりや嫌味を付け加えて来る事も多くありました。

ある舞台では、悪役を好演した僕に対し「お前の嫌味が良く出てる」なんて不要な一言をわざわざ付け加えるので、「やる気」の火に水をかけられ、士気を下げられてしまいます。

「努力や工夫を否定的に解釈する」「良い箇所にも無理矢理ケチを付ける」その実例では、こんな事もありました。「趣味で日常的にビリヤードをやっている男が、ビリヤードのジェスチャーをする場面」同じ役を演じた同期のS君の仕草は、ビリヤード慣れした人物には見えませんでした。僕はそれを見て、本場のビリヤードと比較し、なぜ彼の仕草が不自然なのかを思考します。「肘をもっと上げた方が良いのではないか」「慣れた人間はもっと腰を曲げるはずだ」と。

次に僕の演技を見た社長は「お前の方が出来ている。だがSより出来ていると解っている気持ちがいらん」と半ば強引なダメ出しをしてきたのでした。他人の演技から良い所や悪い所に気付き、自分の演技に活かす行為は役者として当然あるべき研究志向で、社長も普段から「他人の演技も見ろ」と言っているのですが、それを批難されたため、僕は自分の動きが結局のところ良かったのかどうかも分からなくなりました。

「自分の良かった所を把握する」事は、進歩するうえで重要かつ必須な情報です。しかし良かった所も否定されるため、自信を失うだけでなく、何処が良かったのか、自分の持ち味は何なのかにも気付けないままとなり、そこを活かす事もできません。

「誉めるとつけあがる」との考え方なのだとは思うのですが、「誉める」事と「良かった所を伝える」事や「努力を認めてやる」事は違います。社長はそれを混同し、「良かろうが悪かろうが何事も叩くべし」と考えているようです。

「過信させてはいけない」とも考えているようでしたが、「自信」は必要です。「自信」とは、文字通り「自分を信じる事」です。おそらく社長は、「自信」と「過信」も混同しているのだと思います。

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