第4章 その1

僕には小学生の頃から将来の夢がありました。それは役者になる事です。中でも特に、大好きだった洋画の吹き替えを中心とした声の仕事に憧れていました。中高時代に遭ったイジメに対しても、自殺なんて一切考えなかったのは、絶対に叶えられると信じている夢があったからでした。

高校4年進学時に、僕は養成所の門を叩きます。芸能の世界を目指す事に、両親は一切反対しませんでした。引きこもりの時期を考えれば、僕が何か目標を持って、自分で挑戦する事を喜んでくれていたのだと思います。

同時期に始めた初バイト先のゲームセンターではイジメがありました。本当に僕はイジメを呼び寄せる電波を出しているようです。閉店時の掃除を僕だけに押し付けたり、翌朝の出勤が僕だとその前日は掃除せずに帰ったり、掃除や景品の準備などが行き届いていない事を社員さんに咎められると、それを全部僕のせいにしたり。

陰口や悪口、また連絡ノートの僕の書き込みだけをわざわざ消したり、シフトを連中の都合の良い様に勝手に書き換えられた事もあります。勿論嫌な気分でしたが、高校でのイジメと比べればマシだった事と、時給が良かったので、お金のためだと割り切って続けました。

話を養成所に戻しますが、養成所ではイジメが一切ありませんでした。養成所に集まっている人間は、みんな夢を持った人達だからだと思います。夢を持っている人間は、他人をイジメて楽しむなんて下らない事はやらないのです。養成所期間中は、一歩一歩夢へと階段を昇っている実感があったので、精神的にとても安定している期間でした。

僕が通った養成所は東京にある大手プロダクションの、付属養成所の大阪校でした。養成所はとても厳しい競争で、毎年進級審査があり、最終的に事務所所属になれるのは、おそらく2~300人に1人くらいだと思います。しかしそれが、たとえ百分の1だろうが千分の1だろうが、枠が「1」さえあれば僕はそれを掴めると信じていました。

そして2000年春、僕は22歳の時、4年間の養成所期間を勝ち上がり、大阪事務所と、その事務所付属の劇団への所属を決める事ができたのです。「夢が叶う! やはり努力は報われる! やっと僕の本当の人生が始まる!これからは充実した人生を歩むんだ!」 そう思っていました。

しかし現実はまったく違うものでした。まず事務所の実状は所属前に受けていた説明とまったく違い、東京本部との連携は希薄、マネージメント力も弱く、その証拠に在籍中にテレビの仕事は1本もなく、実際に僕がドラマやCMに出演したのは、事務所を辞めた後に、個人で取ったのが初めてです。

また、実力を正当に評価して貰えない事に大きな不満を感じていました。僕は他の劇団員に決して引けをとりませんでしたし、発想力ではむしろ絶対的に優れている自負がありましたが、それがなかなか認められません。事務所内の評価は社長と言うフィルターを通し、社長からの評価だけが全てでした。

贔屓もあからさまで、先輩団員の中に社長への究極のイエスマンが1人おり、社長は彼がお気に入りで、彼に対しては甘い指導をするのですが、これがまた見事に漫画のような話で、贔屓された彼は劇団内で1~2を争う大根だった上に、陰で後輩をイビる人間でした。のちに聞いた話では女性団員や女性事務員のほぼ全員にセクハラもしていたようです。

ただ、これらの事柄はどこの組織でも少なからず存在する話かもしれません。どんな職業であれ、世間ではある程度の理不尽は付き物で、避けて通れないものです。しかしここの事務所は、これらの次元では語れない大きな問題を抱えていました。それは、強大な権力を持ったトップである社長による独裁的パワハラです。

社長なのですから全権を持っているのは当然なのですが、社長は演出家でもあり、僕らの演技指導講師でもあり、そしてその指導の際に罵声、罵倒、罵詈雑言、怒号、人格否定、矛盾、一貫しない指導や間違った指示が日常的なのでした。

当時はまだ「パワハラ」という言葉はなかった時代です。肉体的暴力こそありませんでしたが、状況はまさに今で言う「パワハラ」そのものでした。

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