第3章 その4
そして僕は学校を休みがちになってしまいました。クラブ以外の普段の授業でも、友人は全員が隣のクラスにおり、僕の放り込まれる教室には、正論や常識が通じないイジメ連中が全員揃っているのです。今からでも隣のクラスに変えて欲しいとも言いましたが、やはり年度途中でクラスを移る事は認められず、取り合って貰えませんでした。
イジメはとりあえず先生が介入してくれた事により、一応は下火になりましたが、結局は厳重注意程度の事だけで、罰則的な物は何もありませんでした。自転車分解事件に関しても追及は行われず、それはとても僕が望む対応ではなく、不満しか残らないものでした。
一連の僕へのイジメ事件は、学校側にも大きな衝撃だったようです。開校以来、数十年の歴史の中で、度を超えた陰湿なイジメがなかった事が学校の自慢だったのですが、その神話が崩れたからです。さらに学校の案内冊子に毎年書かれていた「イジメなどもなく、明るく雰囲気の良い学校」みたいな一文が、なんと翌年号から消されたのでした。まさに、学校の伝統、歴史が変わってしまったのです。
そして学校そのものを休みがちになった僕は、出席日数の問題で留年の危機を迎えます。中学校まではどれだけ欠席しても進級できました。しかし高校ではそうはいきません。特に英語は2学期終了時点で、あと1回欠席するとアウトの可能性がある所まで迫っており、3学期はとにかく出席日数を稼がなければいけない状態となっていました。
42度の高熱があった日は、「英語の授業だけでも」と、母が車で学校に送ってくれ、僕は氷嚢を持ったまま1時間だけ席に座りました。母はその間、学校の前に車を停めて待って居てくれました。そんな母や兄の協力のお陰もあり、僕はなんとか無事に進級する事ができました。
自転車は学校手前のマンションの自転車置き場に停めるようになりました。僕は残り2年半の高校生活をずっと、バスと徒歩で通学しているフリを続けたのです。案の定、途端にタイヤがパンクする事はなくなりました。
幸いだったのは、2年生からの3年間参加した生徒会が居心地よく、自分の居場所を見つけられた事が、学校を続ける大きな救いになりました。高校生活で楽しかった事を思い返すと、ほとんどが生徒会でのエピソードになります。
また、翌年からはクラス分けも考慮されたものとなり、無事に仲の良い友人達と同じクラスになる事が出来ました。イジメ連中の一部も同じクラスに入りましたが、主犯だけは隣のクラスになり、主犯は1人では何もできず、他の連中も主犯が居なければ大人しい物でした。やはり彼らはしょせん、つるむ事で勘違いをしているだけの連中なのです。また、僕と言う標的に手を出せなくなると、仲間割れも始まったようです。彼らは誰かを標的に、「イジメ」と言う遊びがしたいだけで、その道具であった僕を取り上げられると、それだけで結託が崩れたようでした。
サッカー部の話に戻りますが、僕や僕が集めた先輩達が参加した前途の大会では、地域の3位決定戦まで勝ち上がる事ができました。面白いのは、試合では得点を獲れるのが僕だけだという事実は理解しているようで、公式戦の試合中は私情を持ち込まず、僕を頼りにしてきました(試合には勝ちたいらしい)。また、PK戦まで縺れた試合では、僕と先輩達が決める一方で、イジメグループで蹴った奴は全員が外していました。見事なものです。
3年生になり、僕は徐々にサッカー部に顔を出す事が減って行きました。僕や先輩がサッカー部から手を引くと、部は規定人数を集める事すらできず、一回戦不戦敗を繰り返していました。連中は僕なしでは、まともにクラブ活動すらできなかったのです。最後には、連中の中の1人が「人数が足りないから、頼むから試合だけでも来てくれ」なんて言ってきましたが、「すまなかった」の一言がなかったので勿論行きませんでした。
その後もなんとなくクラブに籍だけは残していたのですが、結局最後は1年半ほど幽霊部員の状態が続いたあと、卒業直前に正式に退部。理由は、卒業文集のクラブ欄に、連中と仲間として名前が並ぶのが嫌だったからです。
この頃、世の中ではイジメを苦にした学生の自殺が相次ぎ、社会問題になっていました。でもこんな十代を過ごした僕でも、1度として「自殺」を考えた事はありませんでした。なぜなら、僕には「夢」があったからです。「今はどんなに辛くても、夢さえ叶えれば人生逆転。そして僕は必ず夢を叶える。」そう考えていたから耐えられたのでした。僕は今の辛さよりも、未来の充実を見ていたのでした。
そして僕は4年生になった時に、俳優養成所の門を叩きます。自分の夢を叶えるための1歩目を、いよいよ踏み出したのです。しかし、そこでも信じたくない現実が待っているのでした。
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