第1章 その2
とにかく僕にとっての父は「嫌い」なんて枠を越えた、「究極の憎悪対象の塊」でした。
こんなに人を恨む事など、後にも先にもありません。父の言動ひとつひとつの全てが憎く、父が座れば「座りやがってこの野郎」と思い、父がお茶を飲めば「飲んでんじゃねぇぞコラ」としか考えられないくらい、父の一挙手一投足まで、すべてが憎くて仕方ありません。
「大人になって力関係が逆転したら父を殺す」
それが僕の、産まれてから最初に持った将来の夢でした。父の死を望みながら過ごすのが、毎日の僕の生活でした。
我が家ではこれが幼少の時から当たり前だったので、「父親」と言うのは、世の中すべての家庭でそう言う存在なのだと思っていました。「父親を好きな子供」なんて世の中に存在するとは思いもしてませんでした。
ある時ラジオ番組で、父を尊敬しているとの内容のリスナーさんのハガキが紹介されているのを聞いた時は、とても信じられず耳を疑ったのを覚えています。
小学5年のある日、父から暴力を受けている最中に、僕の中で何かがプチンと切れました。無気力感が翌日になっても消えず、その日は理由をこじつけて学校を休みました。
最初は「熱もないのに休む」事に、とんでもない事をしていると言う感覚がありました。それこそ犯罪を犯しているくらいの恐怖と罪悪感です。しかしそれが何度かあり、「休む事」に慣れてくると、日常的に学校を休むようになるまでそう時間はかかりませんでした。
学校を休んだ事を知った父は最初、強制的に登校させようと暴力を振るってきたため、母は以降、あまり父に僕が休んだ事を報告しませんでした。しかし母も、父から問われれば答えない訳にいかず、父と何度も揉めました。父は、僕の不登校の原因が自分の暴力にあるとは思っていません。
それから間もなく、父のシンガポールへの転勤が決まります。父は海外赴任も含め転勤の多い人間でした。僕は友達と離れる事や慣れた環境を奪われる事が物凄く嫌で、引っ越しや転校は大嫌いでしたが、それがまたしても、しかも海外です。はっきり言って大迷惑な父の転勤なのに、父がこの時に言い放った言葉は、「振り回してスマン」ではなく、「これはお前らにとってチャンスだ」でした。
これだけ嫌な思いをさせられて来た転校や引っ越しを、逆に恩着せて来たので、僕の中には反感と怒りしか起こらず、絶対に行かないとの決心が固まりました。高校受験を控えた兄も、日本の学校に通いたいとの希望があり、結局、父は単身赴任でシンガポールに行く事になりました。これにより僕は、ある意味で安心して学校を休めるようになったのでした。
そして積もりに積もっている父への憎悪は、僕に復讐を計画させるようになります。
母も父の理不尽な独裁には疑問を持っていましたし、兄も父が嫌いでした。しかし、甘んじてその環境を受け入れて生活する母や兄とは違い、僕はこの支配された環境を絶対にぶち壊してやると言う強い意志を持っていたのです。
父は出張や休暇で年に4~5回帰国してきます。中学1年生の時、僕はとうとう一時帰国していた父に襲い掛かりました。
「なんじゃワレゴラァア!!」「殺すぞボケゴラァアー!!」「死ねやおらああ!!」今までどれだけ父を恨んで生きてきたのか、どれだけ復讐してやりたい存在なのか、どれだけ殺してやりたいのか、どれだけ死んで欲しいのか、全部ぶちまけてやりました。勿論、建設的な言い方などではなく、殴りかかりながら喚き散らしてです。
母には、事前に「今日やるから邪魔するなよ」と予告しました。母は、僕が幼少の頃からどれだけ父に悔しい思いをさせられ続けて来たかを知っていたので、この一大決心の一揆は引きとめるより、見守るしかないと思ったようです。
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