第1章 その1
僕は荒田家の次男として産まれ、「亮平」という名前を付けられました。
生後9ヶ月の時に、父の仕事でアメリカに移り住み、アメリカ生活用の名前として、「ロジャー」と言う名を与えられました。
5歳で帰国、石川県で4年過ごしたあと、小学4年生から兵庫県に引っ越しました。
しかし小学5年の終盤頃から、徐々に不登校になり始めました。
不登校に関しては次の章で詳しく触れますが、原因は幼少の頃から受けて来た父からの暴力です。「日常的」とまで言うほどの頻度ではありませんでしたが、父は怒るとすぐに暴力的になり、いつも僕を足蹴にしていました。
大半のパターンは、父が足の裏で僕の顔や上半身を蹴飛ばし転倒させ、倒れて泣き喚く僕に、父が追い打ちでサッカーボールキックを浴びせ、それを母が必死に止めようとする。
それは我が家では見慣れた光景でした。古くはアメリカ在住時の記憶があるので、3~4歳の頃には既にあったという事です。その時は僕の小さな両手首を父が片手でまとめて握り、僕の手を塞いで防御が出来ない状態にしてひっぱたかれました。
泣きながら寝て、翌朝目を腫らして目覚めた事は、それこそ数えきれないくらいあります。
機嫌を悪くした時の父の紅潮した顔は本当に恐ろしかったです。父が暴力に出る理由の大半は理不尽なものでした。勿論、僕の我儘が原因だった場合も多くあったとは思いますが、基本的に父の説教には一貫性がなかったり、的を射ていない事ばかりでした。
子供の頃は、「大人は正しい事を言う存在」だと思っていたので、「父が正しいのかも」とも思っていましたが、大人になった今思い返しても、やはりおかしな事だらけです。
ある時は、飲み物に繰り返し氷を入れていたら、「水を入れろ! 氷は水で出来てるんだから同じだ」と怒られた事があります。今思うと、おそらく父は自分が氷を使いたい時に、それが足りない事が許せなかったのだと思いますが、氷は飲み物を冷たくする目的であって、水では薄くなるだけです。それで暴力を振るうって、おかしな話です。
この時の暴力は控えめでしたが、ようするにこんな感じなのです。
僕が7歳くらいの頃、学校のイベントで貰って帰って来た葡萄を父が勝手に食べて、それが発覚すると、それを誤魔化すためなのか、暴力に出られました。つまり、たとえ原因が父のほうであったとしても、暴力によって形勢を制するのです。
この時も母が必死に止めようとしましたが、父はお構いなし、僕をさらに容赦なく蹴飛ばしまくりました。どんなに泣き叫んでも父は暴力をやめません。そしてそれがひとしきり終わると、父はその後のうのうとゴルフの打ちっぱなしに出掛けて行きました。
同じく僕が7~8歳のある時には、車に乗るのをモタモタしていた僕に苛立ったのか、 僕の脚がまだ出ているにも関わらずドアを閉め、僕の脚をドアに挟んだ事もあります。とっとと脚を引っ込めろと言う事なのでしょう。後年、同じ事をやったどこかの父親が虐待で逮捕されたとのテレビニュースを見た時は、なんだか複雑な思いでした。
兄も何度か暴力を振るわれた事がありましたが、大半の場合は僕が標的でした。きっとやんちゃな僕の言動に、父は腹を立てるのだと思います。
ワンマンな父は、何事も自分の命令通りに動く事を要求して来るのですが、大人しく従う兄に比べ、僕は疑問を持つと口答えをしてしまうため、父は暴力に出るのでした。氷の件の時も、兄は大人しく水を入れていましたが、僕は異論を言ったと思います。
ただ、まだ言葉の引き出しが少ない子供の僕は、その疑問をうまく言葉にできません。泣きながら母に、「なんでお父さんなんかと結婚したん?」と追及した事がありました。母は答える事ができず困り果てるばかりで、突っ伏して大泣きする僕の背中をさする事しか出来ませんでした。
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