第2章 その1
小学4年から通っていた兵庫県の小学校では、仲間にも恵まれ、担任の先生もとても良い方で、居心地に不満はありませんでした。僕が学生時代で唯一「イジメ」と無縁だった学校は3年間のこの兵庫の小学校だけです。活発でお調子者、スポーツ万能、勉強も芸術も好成績、クラスの人気者タイプ。多分、この時の僕が、本来の僕なのかもしれません。
小学5年の終盤頃、父の暴力が原因で不登校になりました。「たまに」の休みが何度か重なり、6年生に入るとその頻度も徐々に増えて行きました。父との事は前の章に詳しく書きましたが、父はほどなくして海外赴任が決まり、それから25年間ほど別々に暮らす事になります。しかしだからと言って、1度切れた僕の中の糸は、元には戻りませんでした。
学校に行かなくなって最初の頃は、毎朝が母との格闘でした。母はなんとか学校に行かせるために僕を叩き起こそうとし、僕は頑なに布団から出ない。学校に行かない日は、テレビゲーム禁止の罰を与えられたりもしました。6年生の後半には、ほとんど登校はせず、卒業式にも出席しませんでした。
所属していた町のサッカー団は、卒団まで残り半年ほどの段階で辞めてしまいました。仲間達と仲良く活動できていたチームだったので、これは勿体なかったと思います。でもサッカーチームにはクラスメイトも多くおり、学校に行っていない状態では、チームのほうで彼らと顔を合わせる勇気がありませんでした。
当時はまだ不登校児の存在はあまり一般的に認知されておらず、「登校拒否」と呼ばれていました。世間的にもほとんど理解されていない時代です。父からは「小学中学は義務教育だ。だから行かないのは義務違反だ」と言われました。これが父の勘違いなのか方便だったのか、法律は全く違う事をのちに知りますが、まだそんな事を解っていない僕は、学校に行かない事に罪悪感でいっぱいでした。
ただ僕の中では、この不登校をそれほど深刻には考えていませんでした。中学には行くつもりでいたからです。「将来、何をやるにも高校は出ておく必要がある、その高校に入るには勉強が出来ないといけないから、中学には行っておかなければ。」そう思っていたのでした。すでに役者になりたい夢を持ち始めていたので、台本を読むにしても漢字が読めなければ話にならないと考えていました。
しかし、ここから僕の人生は本格的に狂っていく事になります。中学校生活のまさに第1日目、入学式での事です。出席番号1番の僕は、体育館でクラスごとに整列する際に、列の先頭でした。すると隣のクラスのヤンキーに目を付けられ、イジメを受けるようになったのでした。
おそらく連中は、「誰かをイジめよう、誰にしようか、じゃとりあえず先頭の奴」って感じだったのではないでしょうか。「中学からはちゃんと行こう。」その出鼻は入学初日、なんと登校わずか1時間にして挫かれてしまったのです。
僕は石川県での小学校低学年の頃にもイジメを受けていました。毎日のように泣いて帰っていた時期もありました。とは言え、小学校の時のイジメはまだかわいい物です。イジメっ子は集団ではなく単独犯で、周りからも評判が悪く孤立した子でした。つまり、そこには正しい正義の尺度が存在し、周りの空気は僕の味方でした。
しかし中学以降になると、イジメは格段にタチが悪くなります。まず中学以降のイジメは、そのほぼ全ての場合が集団で行なわれる物になります。5人ほどでつるんだ集団がヘラヘラ笑いながら近づいて来ては、絡んできます。しかも厄介な事に、イキっている事をどこか「かっこいい」と言う風潮すらあります。
大怪我をするほどではありませんでしたが、蹴られたり頭を叩かれたりもしました。どんなに正論で諭したところで反省もしませんし、彼らにとってはイジメをする事が「楽しい遊び」となっているので、蹴ったり叩いたりしながら笑っているのです。入学からわずか1週間、僕は不登校と引きこもりに逆戻りしてしまいました。
0コメント