第1章 その3
その後も僕は、父が帰国する度にブチギレ全開で襲い掛かりました。父の帰宅と同時にスイッチが入り、殴りかかったり物を投げつけたり、全力の飛び蹴りをかましたり。
これは「父に分かって欲しい」とか、「性格を直して欲しい」などの思いは一切なく、とにかく恨みを晴らす復讐でしかありませんでした。目的は勝負ではなく復讐だったので、卑怯だろうがなんだろうが関係ありません。
目についた周りの物を片っ端から投げつけました。家の中の色んな物が壊れました。消火器を浴びせた事もありました。おかげで家の廊下は消火器の粉でとんでもない事になりました。ただし、この1度きりの奥の手は噴射の瞬間を母に邪魔され、その隙をついた父のタックルを浴び、足を持たれて引きずり回されるという展開になってしまいました。あとで、「なぜ邪魔をした! どっちの味方だ!」と母を責めました。
母は僕に一定の理解は示しつつも、伯母(母にとっては姉)を呼び寄せた事があります。当時はこれに対し、部外者の監視役を連れて来られたような反感を持ちましたが、いつ僕が包丁を持ち出し、取り返しのつかない事になるか分からないような雰囲気を、母は1人で抱え切れなかったのだと思います。
まだまだ力は父のほうが強かったものの、硬い物を容赦なく投げつけたりしたので、父は指を骨折するなど何度か怪我をしました。しかし父にとっては肉体的なダメージ以上に、息子の本気の反乱が精神的に相当ショックだったようで、この頃から独裁的な態度や言動がかなり控えめになって行きました。
僕が自分の部屋から出てくれば、父に身構えるような緊張感が走っているのが分かりました。僕の反乱が、ちょっと癇癪を起したとかそんな次元とは訳が違い、そこには強烈な殺意すらこもっている事を父は感じたのでしょう。この憎しみが尋常な物ではない事を肌で感じた父は、恐怖すら抱いたと思います。
また、父の帰宅回数が若干減った気がします。もしかしたら出張などでの帰国の際は、ホテルに泊まるようになったのかもしれません。そりゃ、家に帰ったらいつ息子が襲ってくるか解らない環境では、安心して寝る事もできないのでしょうから、賢明な判断と言えるでしょう。実際僕は、寝込みを襲うプランも考えていました。
ところが1年半ほどすると、僕は父が帰国しても襲いかかる事が減っていきました。別々に暮らしているため新たな怒りがチャージされず、いざ父が一時帰国してきても、殴りかかるほどの「怒りの沸点」にテンションを持って行くのが、逆にしんどくなってきたのです。「今度帰ってきたら襲うぞ」と思っていても、当日になると「今日はそんな気分じゃないし、次回で良いか」となってしまうのでした。
父も僕を刺激しないようになのか、なるべく関わらずと言った感じになり、まさに「冷戦」、父が1週間帰宅していても、一言も会話がないのが普通になりました。
父はその後、系列会社などに移ったり、何度かの転勤を重ねつつ、完全退職するまで単身赴任を25年ほど続ける事になります。年に数回は帰って来るものの、僕らにとって、父が居ない生活が日常となりました。
接する機会がほとんどないため、「嫌い」と言う感情は薄れて行きましたが、勿論「好き」ではなく、無関係な他人と言う感じでしょうか、僕にとっての家族は母と兄だけ、感覚的にはそうなりました。
その感情は、それ以降も20年近く続く事になります。和解を迎えるには、まだまだ長い時間と大きなきっかけが必要なのでした。
0コメント